Region vol.43
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表裏ふるさとのぞき岡田 哲也[おかだ・てつや]1947年、出水市生まれ。ラ・サール高校から東大中退。物語『川がき』三部作、詩集『わが山川草木』、エッセー『憂しと見し世ぞ』など著書多数。一昨年8月に『酔えば逢いたい人ばかり』を発刊。東串良の町の形は、串良川にそって象が鼻をかかげた姿に似ている。「花あかり 隅に置けない大隅路」ひと昔ほど前、こんな与太句を飛ばしながら、串良のあちこちをうろついた。道の辺に新入生の真新しいランドセルが目立つ頃だった。備蓄基地のタンクや古墳を目に入れつつ川口の大橋を渡ると、柏原海岸の松林が、黄色い敷蒲団の上に寝そべっていた。「レモンエローの絵具をチューブから搾り出して」とは梶井基次郎の『檸檬』の形容だが、その「レモンエロー」が、大地のキャンバスの上に幾重にもパレットナイフで引きのばされていた。「ああ 東串良では 菜の花が遅いんだなあ」私は、ぼんやりこう思った。だが、それはルーピンだった。黄色は目立つ色ですからね、と同行のひとりが賛嘆した。たしかに、と私は頷きながら、ルーピンを菜の花と間違えた気まずさもあってか、鹿しかつめ爪らしく言った。|黄色が目立つのは、松が緑で、空も青いからですよ。ちなみに子どもの交通事故防止用の黄色いカッパをこの中に置いてごらんなさい|こんな当たり前のことを偉そうに口走りながら、私は持参したおにぎりを、お花畑のかたわらでパクついた。風と光が、なによりのおかずだった。東串良には、山らしい山はない。だが至る所に古墳があり、社やしろがある。そこかしこの塚や鎮守の森が、いささか平べったい風景の重しとなっている。ただ、山らしい山はないが、ここには古代から今日まで、山のような時代の波が押しよせている。昔から「隅に置けない」地だった。奈良時代の地誌『風土記』にも、大隅の郡こおりの「串くしらトの郷」の項があり、「髪くしら梳」の字が当てられている。そしてそれは、「隼人の俗くにひとの語ことば」だとわざわざ注記されている。また柏原の松林の中には「神武天皇御発航伝説地碑」もある。かつて神武天皇が天下泰平をめざして、日向の地を発ったという故事に基づいている。『日本書紀』によれば、天孫降臨の地だって「筑紫の日向の高千穂の櫛くしふるたけ触峰」であり、神武天皇は皇子や海軍衆を率いて攻めあがったとあるから、こういう伝説も生まれたのだろう。ただ、隼人族や熊襲族は、南九州にあってヤマトタケルノミコトをはじめとする時の権力者から、けしからんと征伐された側である。東串良あたりに残る多くの古墳は、ここを根城にして隼人をやっつけた「ヤマト」の武将や貴人たちの墓だったろう、と私は思う。時の天皇の命を受け、征夷の御旗を立てながら、多くの武人たちが柏原あたりに上陸したことは想像に難くない。そして異郷で客死したおエラいさんたちは、せめて「都」へとつながる、串良の海辺に葬られたのだ。塚に眠る異国の人たち。ここから南九州一円にもたらされた「都ぶり」。そしてここから旅立っていった隼人の特産品、さらには戦利品としての姫たちや兵士たち……。海はさまざまなものを隔てもするし、繋ぎもする。東串良はその意味で、「都」と地つづきの土地だった。やがてここが、この国の命運と繋がったのは、国家石油備蓄基地建設によってだった。そう思うと、丸い巨大な石油タンクが、かつての古墳たちと重なって見える。これらはいずれも、日本の片隅に盛りあがる国家の力ちからこぶ瘤なのだ。東串良 塚とタンクとルーピンと文・岡田 哲也(写真提供/東串良町役場)

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